目次

Toggle

o  1.1 四代直美と栄二の放逐 昭和57年(1982年)

o  1.2 瑞霊聖師転覆事件 昭和7年(1932年)

§  1.2.補1 大島豊と高見元男の関係

§  1.2.補2 転覆工作の失敗

§  1.2.補3 大島豊は外務省の工作員

o  1.3 出口梓擁立事件 昭和二十二年(1947年)

o  1.4 瑞霊聖師転覆から神定め四代直美放逐まで

§  1.4.補 四代ではなく瑞霊聖師の放逐

o  2.1 『霊界物語』第六十巻挿入節『瑞祥』

o  2.2 『霊界物語』第六十巻追加三篇

§  2.2.a 第三篇 神の栄光

§  2.2.b 第五編 金言玉辞

o  2.3 『霊界物語』第六十巻総説と此の世の泥

o  2.4 『霊界物語』第六十巻以降の転換

o  4.1 神(なお)定めによって三代は大二と結婚

o  4.2 二代と大二の九州巡教:不動岩から杖立温泉

o  4.3 いつの日か いかなる人の解くやらん この天地の大いなる謎

o  4.4 『瑞祥』に示された泥とは何か

o  4.5 『錦之土産』

§  4.5.1 宇知丸に託す

§  4.5.2 三代教主補大二は大黒主系統

§  4.5.3 『錦之土産』での三代の取り扱い

o  4.6 木の花姫の配役

§  4.6.1 『錦之土産』アナロジーから『霊界物語』の構造をみる

§  4.6.2 『霊界物語』山河草木第64巻下の「木花姫命」

o  4.7 入蒙に必須の準備

§  4.7.1 杖立温泉

§  4.7.2 不動岩と瑞霊苑のみろく神像

o  5.1 『霊界物語』小事典

o  5.2 報身みろく

o  5.3 大本史とのずれ

o  5.4 自然なつながり

o  6.1 なお神諭,日出麿随筆,直日随筆

o  6.2 実現性は

はじめに

 作成中です。不確かなことなど,まだ修正などできていません。2024/05/30

 このページで論じる観点は,大本教の創始者である出口なお,その娘出口すみの夫出口王仁三郎が立てた教えを信奉そして活動していた父を尊敬するという立ち位置の著者のものである。ぼくは宗教二世にあたるのだろう。ただ,教団には属していない。できたかあ。
 宗教二世への信仰の強制が,現在,大きな社会問題になっていることは承知しており,その観点から考えると,三代教主出口直日は,生まれる前から次のなおの神諭に出ているように,自らの人生を選択する余地なく,過酷な運命を背負っていたことは確かなことであろう。

————————————————(引用1はじめ)
霊界物語 > 第60 >
5篇 金言玉辞 > 21章 三五神諭(その二)明治三十二年旧七月一日付の出口なおの神諭に,

 金神大国常立(うしとらのこんじんおほくにとこたちのみこと)三千(さんぜんねん)経綸(しぐみ)は、根本(こつぽん)(あま)岩戸(いはとびらき)()るから、(あく)霊魂(みたま)往生(わうじやう)さして、万古末代(まんごまつだいぜんひと)つの()(いた)すのであるから、(かみ)(くに)(ただ)一輪(いちりんさ)いた(まこと)(うめ)(はな)仕組(しぐみ)で、木花咲哉姫(このはなさくやひめ)霊魂(みたま)加護(おてつだひ)で、火々出見(ひこほほでみのみこと)とが、守護(しゆご)(あそ)ばす時節(じせつ)(まゐ)りたから、モウ大丈夫(だいぢやうぶ)であるぞよ。
(引用1おわり)————————————————

 とあって,1902年(明治35年)37日,王仁三郎と二代すみの間に,出口朝野(後の三代直日)が生まれ,なおと王仁三郎によって,朝野が木花咲耶姫だと宣言された。1928年(昭和3年)には,二番目の夫高見元男(後の出口日出麿)(1897年(明治30年)1228日生)と結婚し,日出麿が彦火々出見尊,となる。

 朝野は三代教主として生まれながらに決定され,それを否応無く引き受けなければならなかったのである。朝野のような才能豊かな人にとって,このような自らの思いとは別のところで,神定めとして決定された境遇は,極めて過酷なものであっただろうが,出口なお,出口澄子,王仁三郎に,教団を託されて,周囲からの期待にも応えて,昇天されるまで,懸命に本人が思うところの世界を繋いできたのであろう。以下,敬称は省略する。
以上,2024/04/26挿入,2024/05/03,修正。

 テーマ「三代教主は木の花姫か」は,ぼくにとって重要だ。出口王仁三郎口述『霊界物語』を信じることができるか,延(ひ)いては出口王仁三郎の教えを信じることができるか,に関わっている。三代教主が木の花姫だとすると,ぼくの王仁三郎信仰は瓦解する。
 ぼくの三代教主の個人的記憶は,少年時のささいな印象に基づくものであるが,三代教主が普通の人なら全然問題ない。単に,「おばさん」の住居前の庭で目が合っての印象に過ぎない。愛に満たされた神(に近い存在)とされるから,ぼくは拘っている部分もある。
 『霊界物語』での木の花姫の活躍は繰り返し述べられている。何らかの成果を謳う文脈で唐突に木の花姫が挿入されることも多々ある。三代教主に木の花姫が宿っているとするなら,『霊界物語』の記述は,単に「大本運動」または「出口家」の宣伝に使用されていると考えざるを得ない。二代苑主(出口すみ,澄子)昇天後だと思うが(創刊号はタニハで見つけたが未だ確かめていない),月刊誌『木の花』が創刊され,タニハの資料整理過程で『木の花』を斜め読みした感想では,三代教主は周辺に大いに盛り立てられてきたようだ。

1. 瑞御霊神業に対する半世紀に及ぶ破壊工作の結実

1.1 四代直美と栄二の放逐 昭和57年(1982年)

 三代教主は自らの長女直美を神(王仁三郎)定めの教主と認めながらも,直美の夫「栄二」の思想が「社会主義的」であることを理由に,長女直美とともにいわば勘当し,三女の聖子(きよこ)(直近の下の資料1参照)を四代教主とした。『ウィキペディア』の出口直日,の項は,現大本本部の捏造が一方的に誌されており,ここでは当初掲載していた引用を削除した。

資料1(https://webcatplus.jp/creator/735428): 出口 聖子(でぐち きよこ、1935219日 – 2001429日)は、宗教法人大本の四代教主。 昭和10年(1935年)、三代教主出口直日・教主補出口日出麿の三女として出生。三諸齋(いつき)と結婚。昭和55年(1980年)、英国聖公会大主教座教会カンタベリー大聖堂で三代教主名代として能「羽衣」を舞う。 昭和57年(1982年)5月、教嗣となる。昭和63年(1988年)1月、直日の命により教主代行。三代教主のそば近くに長く仕え、その指導と影響を強く受けた。 平成2年(1990年)923日、三代教主直日の昇天により道統継承、四代教主となる。(2024/04/23閲覧,現大本本部の記述のようだ)

 タニハに10部ほどあった次の冊子を参照した。『愛善世界』,No. 91, 1990.11.1,愛善世界(編者山本滋)発行,印刷: 島根印刷株式会社。

 この号には,出口王仁三郎が直美を四代教主とした証拠の品やお歌などが披瀝されている。p. 30には,直美の,結婚(昭和20416日)に関わる記事がある。それをそのまま,次に。
「聖師様,二代様のお帰りになった中矢田農園は明るさを取り戻した。しかし日本の戦況は日増しに悪化していった。終戦を迎える四カ月前,聖師様が自ら選ばれた栄二先生とお見合いして結婚をされた。直美様は数え年の十七歳という若さであった。」

 直美の夫,出口栄二(旧姓家口)を聖師が選んだのは,栄二が有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと,直近の下の資料2参照)の落とし子の家系の子であることが世間的に認知されていたからと聞いていたが,確かめていない。
 上田喜三郎(出口王仁三郎が出口家に養子に入る前の名前)は,伏見の上田家の親戚が営む船宿で有栖川宮熾仁と母よねが出会って授かった子供と和明はするが,確たる証拠が示された訳ではない。有栖川宮熾仁から御歌と懐刀を頂いたとする。この歌と懐刀については,毎日新聞1978年(昭和53年)1210日号(京都2丹波版)などに紹介されてはいる。なお,戸籍上の父は母よねの養子である。
 熾仁については次の資料2に。なお,この経歴を見ると,間違いなく,北朝系であり,おほもとの言い伝えなどでは南朝系とされる明治天皇以降とは異なる。朝日新聞の文化欄でのかつての著名な知識人丸谷才一が現令和天皇に男子の子が無い件で,北朝があるではないか,と書いていたのは印象深い。

資料2(国立国会図書館,近代日本人の肖像,熾仁親王): 天保6219日 〜 明治28115日(1835317日 〜 1895115日)。有栖川宮第9世。有栖川宮幟仁親王の第1王子。嘉永元(1848)年仁孝天皇の猶子(メモ:親族または他人の子を自分の子としたもの。養子,義子)となり、翌年親王宣下。4年仁孝天皇皇女和宮と婚約したが、和宮が徳川家茂に降嫁のため沙汰止みとなる。幕末以降国事に奔走し、慶応3(1867)年総裁職に就任し、戊辰戦争では東征大総督となり官軍を率いて東下、江戸に入った。明治10(1877)年西南戦争には征討総督として出征、その後陸軍大将となり、参謀本部長、参謀総長となる。日清戦争中に病没。

1.2 瑞霊聖師転覆事件 昭和7年(1932年)

 最近,仄聞するところによると,昭和六年の満州事変後,昭和七年(1932年 元男と朝野結婚後4年ほど後)か,出口日出麿(旧高見元男)は王仁三郎に満州に派遣され,かなり危険な目に遭って(後述のようにむしろ積極的な隠退策動),そういう王仁三郎を早期に隠退させるべく策動し,それが王仁三郎に露見したようである。王仁三郎からの怒りを避けるべく,三代とともに列車に乗って日本海沿いに進み,北海道に渡り東部(釧路だったか)に逃れたという。その際,生まれて間もない聖子(後の大本本部の「四代教主」)を懐いていたというから,昭和10年大本事件の年であった。これは徳重高嶺から聞いたということであるが,当時の役職を考えると,徳重は大国以都雄(大国美都雄)から得た情報ではないか。

 上掲の『愛善世界』同号には,徳重(1990)が掲載されている。

 この詳細は余りに生々しく,おぞましいので,詳細は省いて事態の流れを示す。関心のある方は,愛善世界社への注文方法 リンクを通じて,バックナンバーの在庫を問い合わせる選択肢もある。徳重の記述は大本に関わる人々にはかなり広く知られていることのようである。他の情報ソースからもぼくは了解していた。

 次の図1は,大本信徒連合会特別委員会(2005)の第一部末尾p.16に掲載された裁判資料である。この文献には,この資料そのものの書き下しはなく,ここにぼくが示したいと思う。敢えて適当な文字を宛てた部分もある。文章として流れを壊す部分は削除修正した。カタカナは頭に入りにくく,カタカナ部分をひらがなで表現した。漢字にルビを振ったり,漢字を今風に替えたり,語尾や句読点を付け加えたところもある。
 なお,文献4にもこの図1にあたる資料について解説されている(p.114)ことを発見した。この解説では,王仁三郎の証言の臨場感や大島豊の役割部分などが,意図的に丸まる削除されていることに気付いた。これまで七十年史は宗教団体史として捨てたものではないと考えてきたが,一挙にぼくは七十年史も企業の社史同様,不都合なことには頬被りをしていることを確認できた。
 「大島豊」は,大本七十年史編纂会(1967, 宣統帝問題 pp. 107-115, の,p.108に,1931106日付け電文の発信者としては見えるが,瑞霊聖師転覆問題に係わっては完全に削除されている。

図1 昭和七年頃の大島豊による日出麿を聖師に替わらせる動きを聖師が認める

 昭和十六年一月二十三日木曜日 出口王仁三郎控訴公判第七回
 問 > 証一〇四二号「聖師登板の日近し出(いで)や」の書面を知るや。井口外(ほか)四名より受けとりしや。その顛末(てんまつ)(や)如何(いかん)。
 問(裁判長) > 大島豊などが,その書面で,お前の隠退を迫ったので(は)ないか。
 答(王仁三郎) > 昭和六年(1931年),建川(木庭追記: 少将)さんや泰さんに満州に行ってくれと頼まれた。紅卍字会との提携が出来たという事でした。
 その時,餞別として,東京の信者が七,八千円(用立てて)くれ,それを大島が預かって大島も行くつもりで,亀岡に来ました。
(以下に続く)

(続き) 建川(少将)(木庭追記: 関東軍参謀よりも組織上のより上位者)も一緒に行こうと言われました。この頃は,満州で大本は紅卍字会と活動していました。宣撫班(木庭追記: せんぶはん,占領地での懐柔工作単位)は大本が始めました。十二月八日に発とうとしたのですが,その時,宣撫班の方から「出てくるべからず,身辺危うし」という電信がきました。それで私は中止して,用立ててくれた金を満州(木庭追記: 在満中の日出麿総統補宛てか)に送って,(紅卍字会との提携の)費用に充てました。
 この変更に対し,大島は怒って,(木庭追記: 私を陥れるべく)婦人関係の中傷をしたのです。大島は,「あんたのやり方はぬるくたい(木庭追記: ぬるまゆてきだ,てぬるい)から,日出麿さんと代われ」と言いつつ,奉書(木庭追記: 高位者がその意思・命令などを特定者に伝える際に使うもの)を私に渡して,(私が居た部屋を)出て行きました。大島は,私が行くといいつつ金を出させたのは詐欺のようなものだと怒っていたのです。(以上)

 この王仁三郎の証言中の「奉書」が,この裁判資料の最初に出ている,証一〇四二号「聖師登板の日近し出(いで)や」である。この文面の意味は,「新たな聖師の登板が近い,さてもう」である。「いでや(感)」は,尚学図書編, 1989.『国語大辞典〔新装版〕』小学館, p. 194, によれば,二義あり,その最初の用例にあたる。〔「いで」を強めていう語〕いやもう,さてもう。軽く否定し,ためらう気持ちが加わる。

 つまり,王仁三郎を隠退せしめ,あらたに日出麿を擁立するという宣言である。1931年(昭和6年)9月18日,満鉄柳条溝で鉄道の爆破事件が突発したがこれが満州事変の発端である。文献4, pp. 96-101, の「満州事変の突発」には,大本の動きが詳しく示されている。

————————————————(引用2はじめ)
王仁三郎の動きはこれ以降めまぐるしく,「(王仁三郎)聖師は東京方面に巡教中であった出口日出麿総統補に急電を発した。総統補は予定の巡教を中止し,二〇日に天恩郷に帰着,ただちに聖師と打合わせの上,早くも二四日には加藤明子・宇城省向を帯同して満州へ出発した。二六日には安東に到着し,三〇日には奉天(瀋陽)にはいった。そして奉天を拠点として,四平街(四平)・鉄嶺・開原・鄭家屯・公主嶺・長春・吉林・大連など,大本や人類愛善会の支部,道院・世界紅卍字会の設置されているところはあまねくかけめぐり,会員信者に面接して,それらの人々の不安の除去に努めた。
 総統補の渡満は,時が時であっただけに,道院関係の信者会員から大いに歓迎された。総統補が四平街を訪ねたときに、道院ではつぎのような壇訓がだされた(「真如の光」昭和6・11・5)。

老祖の訓を奉じて伝ふ。抑も運霊(日出麿)再び中華に渡航せしは其機会絶好にして、万世不朽の大功徳を樹立するは即ち今回の行脚なり。其至清至光の霊性を運用し、各地に照翹せられ、到るところ霊光を感ずる者已に無数の災劫を化去し得べし。又今回将に待発せんとする険悪なる濁気も、法を設け之を化免すれば功徳更に言を待たず。只に中日両国の幸福のみならず実に世界人類の福祉なり。我道慈は世界の平和を促進し人類の幸福を企図するを以て主旨とす。運霊は霊に通ずるの第一の門徒なること已に詳知の事実にして今回の行脚は専ら災劫の化免に渡来し効果の総てに超越するもの、此の運化の賜に付尚一層勉励せられんことを要す。民国二十年十月九日[※]

 総統補の渡満は「まさに待発せんとする険悪なる濁気も、法を設けこれを化免」するため、「専ら災劫の化免に渡来し、効果のすべてに超越するもの」とのべられている。したがって壇訓をあおぐ道院・世界紅卍字会員は、事変の災劫にさいして、天降った天使のごとく日出麿総統補の来訪をうけとったのである。
(引用2おわり)————————————————

 壇訓(だんくん)は、古代中国の儒教の経典である『論語』の中に登場する概念で,孔子が弟子たちとの対話の中で述べた教訓や言葉のことを指すのだが,ここでは託宣のような意義を持つ。「壇訓をあおぐ道院・世界紅卍字会員は、事変の災劫にさいして、天降った天使のごとく日出麿総統補の来訪をうけとった」,という事実が,大島豊の動きと繋がることになるようだ。

 日出麿(大本)総統補は,1932年(昭和7年)の1月にひとまず帰国している。総統補は,王仁三郎出発予定であった12月8日には満州に滞在していた。つまり王仁三郎の送金先は日出麿の筈であるが,人類愛善会満州本部関連では,1931年(昭和6年)116日には特派宣伝使として井上留五郎は派遣されていたし,高木鉄男は奉天に駐在せしめていたので,受取人が誰かは手許の資料ではわからない。

1.2.1 大島豊と高見元男の関係

 1931128日時点での当該主役の年齢は,王仁三郎60歳,日出麿33歳,三代29歳,そして大島豊は31(または32)歳である。大島豊のネット上での著作は,ウェブキャットプラスでは,次のようになっている。サイトの大島の生年は間違っているようである。後掲の文献6, p. 100(引用4)によれば,生年は1899年または1890年で,没年は1978年になっている。
 大島豊が王仁三郎に向かって,「あんたのやり方はぬるくたいから,日出麿さんと代われ」と言い放つ場が何故,成立するのか,気になった。日出麿と大島豊の間の関係から来ているものではないかと考えて,メーンキャストの年齢を確認したのであるが,二人が同年代というのは驚きであった。

レーニン哲学の批判

大島豊 著

第一書房

1963

アメリカの哲学思想

大島豊 著

日本放送出版協会

1949

物理學の哲學 ; 宇宙の生命 ; 生物學の哲學

大瀧武著 ; 大島豊著 ; 山羽儀兵著

光の書房

1948.3

宇宙の精神

グスタフ・シュトレムベルク 著 ; 大島豊 訳

第一書房

昭和18

米國に於ける思想戰

大島豊, 山屋三郎

東亜研究所

1943.8

東西哲学の比較研究

マッソン・ウルセル 著 ; 大島豊 訳

第一書房

昭和17

日本的人生観

大島豊 編

文憲堂

昭和17

論理学ノート

大島豊 著

小島書店

昭和15

シェライエルマッハア篇

大島豐著

第一書房

1940.7

東亜共栄圏の諸問題

山口高等商業学校東亜経済研究会 編

生活社

15

表1 大島豊の編著作品

 大本七十年史編纂会(1964)の第二編第三章には, 大正十年(1921年)第一次大本事件に係わって,第5節 大正日日新聞,が配されている。その項「抵抗と閉社」には,大島豊と高見元男(日出麿の旧姓名)の名が見える。大正十年(1921年)第一次大本事件が国家権力によって捏ち上げられて,宣伝の主要機関の一つ大正日日新聞の経営が厳しくなってゆく。その状況について誌された文章の一部を次に引用する。

————————————————(引用3はじめ pp. 509-510
当局は、「大正日日新聞」が大本の抵抗のとりでであるとみて、さらにあらゆる圧迫をくわえていった。それがために経営はいよいよ困難におちいり、七月二一日にはあらたに高木鉄男が社長となった。そして八月三日には、本社を大阪淀川の川畔にある天満筋四丁目に移転するにいたり、西村光月を編集長とし、岡本霊祥・高見元男(木庭追記: 1924年京都帝国大学文学部中退,1928年三代出口直日と結婚)・萩原存愛・吉島束彦・三谷先見・大深浩三らが新社屋にたてこもってなお発行を維持した。一一月二四日には、社長に御田村竜吉がついたが、経済的ゆきづまりはいかんともしがたく、一九二二(大正一一)年七月一五日には、ついに床次元内相の弟である床次正広にゆずって、大本との関係をたつにいたった。
 地方における販売網は、大本記事解禁後ほとんど壊滅したが、信者はあらゆる困難にたえて神業奉仕のまごころをもって新聞の配布に努力をかたむけた。そのなかでも、東京確信会所属の東大生月足昴・大島豊(木庭追記: 東大生大島豊)・小山昇や慶大生嵯峨保二らは、通学のかたわら新聞配達して学業と神業奉仕を両立させていた。そのほか販売部面には苦学生がおおかったが、そののちに新聞界に名をなし参議院議員にもなった前田久吉や、作曲家の服部良一らもいた。綾部では藤津進が、最後まで一枚売りを続行して活動した。
(引用3おわり)————————————————

 大島豊と高見元男は,第一次大本事件の社会的指弾下に係わらず,積極的に活動した帝国大学学生であり,議論も通わせたであろう。日出麿が出口家の養子になる前の友人であり,仲間と考えても差し支えないだろう。三代と日出麿が暮らす家,つまり王仁三郎と澄子の家にも自由に出入りができたであろう。そういう大島だから,王仁三郎に対する暴言も可能であったかも知れないのである。愚人は偉人のそばに居てその偉人を殊更蔑むというのは世の習いである。東京帝国大学法学部卒業という鼻っ柱は極めて高いのである。同大理学部出身のぼくの指導教授から聞いたことがある。「木庭君,旧制帝大に入学試験があったのは,法学部と医学部だけだ」,だから俺をそんなに高く見なくていいい,と言うような主旨であった。

1.2.2 転覆工作の失敗

 大本総統の王仁三郎を隠退させて,大本総統補の日出麿が替わる。このような工作が一体,可能なのだろうか。これは,次の1.2.3 外務省の工作員か,で述べるが,何らかの政治的または経済的基盤を背景にしたものがあったと想像する。出口王仁三郎周辺には社会的に力を持ったスタッフが多数居る。王仁三郎はその人達にとってもカリスマである。救世主瑞御霊として大本の奉仕者や信者は王仁三郎を見ている。

 大島豊の算段は余りに甘かった。日出麿と三代を納得させることはできたが,大島豊一派の謀計は当然ではあるが脆くも崩れて,先に仄聞した逃避行となるのである。三代は何故,王仁三郎体制の転覆に応じたのであろうか。常識を逸脱しているが,後掲の「2 伯耆国大山での垂訓」を見ると納得できるかもしれない。逃避行には大島豊も居たのではないか。

 日出麿と三代の過ちを,王仁三郎はあっさりと許したのではないか。日出麿の役職名に昭和8年(1933年)以降も変化が無いように思う。ぼくが思うに,王仁三郎は大島豊の策動も大島が外務省の工作員であることも知っていたのだが知らん振りをしていたが,王仁三郎周辺の人々が察知して,日出麿以下の逃亡になったのだろうと想像する。王仁三郎に怒りは無かったと考えるのが妥当だろうと思う。だから逃亡した大島豊はそのままにして,日出麿三代の帰りをすんなりと受け容れて居るのであろう。日出麿も三代も受け入れられることは承知の助であった。

1.2.3 大島豊は外務省の工作員

 この瑞霊聖師転覆未遂事件で逃亡した。王仁三郎の日出麿と三代へのいわばお構いなしの処置は,大島豊に対しても,救い主の観点からは許される筈なので,まあ,逃亡したのだろう。玉置(2023)から次の引用4,引用5を抽出した。

————————————————(引用4はじめ p. 100,一部修正)
 大島豊(18991900-1978)は、もともと東京帝国大学(法学部)在学中の1920年(木庭追記: 大正9年,第一次大本事件の前年)に大本教に入信し、大正中期には大本教の東京布教の嚆矢となった「確信会」(木庭追記: 1919年大正8年1019日に発足,初代会長浅野正恭)に所属して活動していた。第一次大本事件(1921年)の後、「大正維新」の理論的支柱であった浅野和三郎を批判して、教団内で存在感を高め、昭和初期には王仁三郎の秘書を務めるようになる。当時は主に東京の牛込支部に在籍し、「東瀛佈道団」が訪日し上京した際の接待や、満洲事変に際しての溥儀擁立工作など、連合運動の政治的工作に関わり(大本七十年史編纂会編,1967p.108)、道院にも入信している。
 その後事件前に、満洲国における政治運動をめぐって王仁三郎と対立して大本教を脱退したが、当時大本教幹部だった出口宇知麿によればその事情は次のようなものであった。大島は「軍部やその他との接触の多い方でしたので、もっと関東軍に密着して、宗教による本当のいみの宣撫工作を、王仁三郎先生にやらせたらいいという考え」を持っており、それを王仁三郎にすすめたが、王仁三郎は「宗教的な面で民族とつながってゆくのでなかったら、うまくゆかない」と自らは満洲国では宣撫活動は行わないことを主張し、大島の提案を蹴った。これにより「大島さんは大本をはなれた」(大本七十年史編纂会事務局編,1962p.279)。
(引用4おわり)————————————————

 浅野和三郎説への反駁が功を奏して王仁三郎の秘書にまで成り上がったとしている。出口宇知麿(でぐち うちまる、1903年(明治36年)115日 – 1973年(昭和48年)56日,大本教主補佐。出口王仁三郎の第三女八重野の夫)さんは,温厚かつ賢明な方なので,もちろん,瑞霊聖師転覆事件は自ら公にしないだろう。大本七十年史編纂会理事である。
 事件前に大本教を脱退したとあるが,これは昭和7年の逃避行を契機にしたものであろう。引用4から見える大島像をより的確に捉えうる部分を次の引用5に示す。

————————————————(引用はじめ5, p. 97
 この紅卍字会と大本教は、1923年関東大震災の際、南京領事で両団体の信者 林出賢次郎の紹介によって出会い、すべての宗教は元来一つであるという「宗教統一」思想の合致を根拠に提携を決定したとされる。その後は、日中を越境して、宗教・慈善活動はもちろんのこと、黒龍会などのアジア主義者、関東軍、奉天軍閥、モンゴル王族などと関係しながら「満蒙独立国」建国を目指す政治運動など多岐にわたる活動を行った。筆者はこれまで、これら一連の活動を「連合運動」(1923-1935)として位置づけ、その活動実態を一次史料によって詳細に明らかにしてきたがその期間を1935年までとしているのは、言うまでもなく冒頭に示した事件によって連合運動が崩壊し、道院・世界紅卍字会は日本での活動基盤を失ったからである。
 ところが意外にも、日本における紅卍字会の活動は「世界紅卍字会後援会」として、事件後も細々と続けられていた。旧大本教信者で事件前は王仁三郎の秘書として満蒙工作に関わっていた大島豊が中心となって1938年頃に設立された同会は、「日満支親善」「大東亜戦争完遂」など日本の国策支援を目的として、主に中国本土の紅卍字会の慈善事業に対する寄付や、紅卍字会の紹介を行っていた。こういった活動は、対中国「文化工作」を主眼とする外務省文化事業部の助成を受けながら、中国本土の紅卍字会とはほとんど関係なく行われた。
(引用5おわり)————————————————

 「第二次大本事件によって連合運動が崩壊し,道院・世界紅卍字会は日本での活動基盤を失った」と考えていたら,「意外にも、日本における紅卍字会の活動は『世界紅卍字会後援会』として、事件後も細々と続けられていた。旧大本教信者で事件前は王仁三郎の秘書として満蒙工作に関わっていた大島豊が中心となって1938年頃に設立された同会は、(中略),主に中国本土の紅卍字会の慈善事業に対する寄付や、紅卍字会の紹介を行っていた。こういった活動は、対中国『文化工作』を主眼とする外務省文化事業部の助成を受けながら、中国本土の紅卍字会とはほとんど関係なく行われた」,というのである。大島豊が外務省といつ繋がったのかはわからない。

 ただ,瑞霊聖師転覆事件を大胆にも起こした異様な自信は,すでに国家権力を後ろ盾にしていた可能性が高いようにも思う。大島豊本人が王仁三郎の秘書だと言っていても,王仁三郎からすると手許から離すと危険だから,そばに置いていたのかも知れない。王仁三郎の秘書というのは,出口宇知麿一人だとぼくは感じている。ぼくが知る三代教主のそばには,いつも出口宇知麿が居た。優しく賢明に。大島豊のような存在は王仁三郎の回りにはかなりの数が居て,本人たちは秘書と思っていたのである。この形について,王仁三郎自信が吐露したということを,最近,ある方から聞いている。

1.3 出口梓擁立事件 昭和二十二年(1947年)

 聖師降しだけでなく,道統を転覆する流れはその後も続く。聖師晩年の昭和二十二年(1947年)には,三代の長男である出口梓(京太郎)を直美に代わって三代の次の教祖にする動きがあった。徳重(1990, p. 8)には,6月8日付の二代苑主の大福帳が掲載されている。

 「この神の世継は女にきめてある。筆先にかたくかたく書き残してあるのに,此の間来たる人の話,梓が世継に仕組が変わりたとわ,そりゃ何を申すか,艮の金神様のお筆先を何と思うておるか,これが天地の規則に定まりておるのじゃ曲津めが,」

この部分を含む内容は徳重によると,「二代教主が大福帳にご染筆になられた日記を,私が昭和二十九年十月六日瑞祥館で謹写し,大本七十年史の資料として提供したもの」である。大本七十年史の記述の流れからすると,文献4(『大本七十年史』下巻)の第七編に掲載されているべきであるが,採用されていない。理事の名として,出口栄二(編纂会会長)を筆頭に,出口うちまる,出口虎雄,大国以都雄,佐藤尊雄,伊藤栄蔵,土井重夫,米川清吉,が並ぶ。三代教主の長男が絡む事件を社会的に公にするのはあり得ないことではある。理事会をたとえ通過したとしても,三代教主が許すわけは無い。

 なお,道統と世継ぎという用語について確認したい。『国語大辞典 (新装版)(p.1758)によれば,儒学の学派のことであり,世継ぎとは関連が無い。同書(p. 2434)によると,世継ぎとは本来,世の統治者としての天皇の位を継ぐこと,であったようだが,大本の場合は,単に,跡目を相続することである。文献7 (p. 7)の出口和明の発言には,「教主(よつぎ)と道統をペアで使い出したのは,昭和二十七年の三代教主就任の時から」とある。当時,誰かが使った用語であろうが,厳瑞二霊の教えを引き継ぐ神定めの教主というようなニュアンスがあって,重厚な響きがある。

文献7: 三代時代をふりかえって: よつぎとは何であったか.  研鑽資料(座談会 1990.10.03)愛善苑事務局.
二日前に送付頂いたもので,大本の現状を知る上で,大変勉強させて頂いた。

1.4 瑞霊聖師転覆から神定め四代直美放逐まで

 大本信徒連合会特別委員会(2005, p. 16)を,上掲の図1に示している。図1下段には,次のように記述されている(一部編集)。

————————————————(引用6はじめ)
 昭和七年頃の聖師様排撃の首謀者だった大島豊は,昭和三十七年(1962年)九月六日,出口栄二先生の総長辞任の約一カ月前,東京からわざわざ来亀して,教主様に面会し,「栄二先生の先般のソ連訪中(昭和三十七年七月一日〜八月一日)したことにより,東京公安庁が創価学会を調査し,次に大本を調べるべく動いている。この際,涙をふるって馬謖(ばしょく)を斬るように」と進言。
 昭和四十一年五月十四日,東筑紫学園創立三十周年の際,徳重(当時史実課勤務)に,大島豊は自ら次のように語っている。「これで栄二総長の辞任となったのだ。教主はそうではないと言われているが」,と。
(引用6おわり)————————————————

 引用6の内容を理解する上で,次の永岡(2013)は参考になり,その一部を幾つか,引用したい。

————————————————(引用7はじめ 『大本七十年史』とその後)
 『七十年史』編纂が続くさ中の一九六二年一〇月、出口栄二は大本の総長ほか、ほとんどの役職を辞任することになった。この年の七月、栄二はモスクワで行われた「全般的軍縮と平和のための世界大会」に、日本の宗教者代表および大本・人類愛善会の代表として参加している。大会の後、中国仏教会の招きに応じて北京に移動し、周恩来首相や中国の宗教者らと会談を行って帰国した。だが、前述したように大本には栄二の積極的な平和運動にたいする反発が存在したうえに、彼の中国行きが葛藤を深刻化させることになる。大本は戦前以来、道院系の修養団体・慈善団体である紅卍字会とのつながりを保っていたが、戦後の同会は台湾(中華民国)を拠点としていたため、栄二が中華人民共和国との強い結びつきを示すことは、大本内部での強い反感を招いたのである。大本における栄二の立場を難しいものにした要因としては、さらに当時の日本の原水爆禁止運動そのものの混乱もあったと思われる。当初「未組織の、「保守」「革新」問わぬさまざまな市民の同時多発的な運動として始まった原水禁運動は、一九五八年の第四回原水爆禁止世界大会あたりまでは「超党派」の枠組みを保っていたものの、大会が安保条約改定反対の姿勢をとった一九五九年の第五回大会では、「安保闘争における政治性がそのまま大会の内容に反映される結果となっていく。
さらに一九六一年のソ連による核実験以降、「ソ連の核を防衛するという内向きの態度をとる共産党と、いかなる国の核実験にも反対の姿勢をとる総評・社会党や地婦連・日青協などの立場の間の亀裂が広がり、こうした分裂構図のなかで、多くの団体・人びとが運動から撤退していった。新安保条約批准反対を決議した人類愛善会および大本も、原水禁運動のこうした混乱と無縁でいることはできなかったのであり、平和運動の「政治化」にたいする危惧が高まっていたのである。
(引用7おわり)————————————————

 出口栄二は1962年(昭和37年)10月には大本総長ほかの役職を三代教主によって「解任」されるのであるが,その直接の契機になったのは,「この年の七月、栄二はモスクワで行われた『全般的軍縮と平和のための世界大会』に、日本の宗教者代表および大本・人類愛善会の代表として参加している。大会の後、中国仏教会の招きに応じて北京に移動し、周恩来首相や中国の宗教者らと会談を行っ」たようなことであった。

 永岡は淡々と書き綴っていて,栄二の大本での処遇について,日本の平和運動の混乱と結びつけてはいるが,これでは何も語ったことにはならない。三代教主とその周辺の思惑にこそ,栄二が放逐された原因があった。それを永岡は追求できていない。その最大の原因は栄二を放逐した現大本関係者から資料や証言を得ていることとも関連があるだろう。栄二側には聞き取りをしたのだろうか。大きな敷地に大きな建物があって,それなりに宗教団体として「世に認められている」側に偏っていないだろうか。

図2 『サルトルとの対話』の様子

 ソ連そして中国も世界平和を指向しての反核ではなく,米軍に遅れを取っている状況での陽動作戦に過ぎなかった。そういう流れが垣間見える時代であった。1964年にノーベル文学賞を辞退した知識人ジャン=ポール サルトルでさえも、ソ連を米国に対抗する「善」とし,中国の核保有を認めていた。日本の知識人たちはそれに反駁できなかったのである(ジャン ポール サルトルほか,1967)。